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この新見御殿町をつくったのは新見藩の「関のお殿様」です。
1697年、元禄10年、赤穂浪士討ち入りの5年前です。
新見のお殿様の関家と織田信長の小姓として本能寺で亡くなった「森蘭丸」の
森家とは当時から姻戚関係で美濃の国で共に織田信長に仕えておりました。
森蘭丸には当時四人の兄弟がありました。欄丸、坊丸、力丸は本能寺で亡くなりますが、一番若い千丸は当時13歳で美濃の国に残っており助かります。
関が原の戦いで徳川家康から認められ、津山城に18万6千5百国で、関家を連れて入って来ます。津山藩森家は2代目にして跡継ぎが無く、関家の長男が森家2代目当主に入ります。この頃に関家は領地を持たない大名として津山宮川関家1万8千石の大名になります。
津山藩森家5代目にして跡継ぎが無くなりお家断絶。森家は2万石で井原から赤穂城に入ります。また1 万5千石で兵庫県三日月城に入ります。一方関家は領地を持たない大名でしたが、新しくこの新見に新開地をもらい、新しく新見
の城下町を凄い勢いでつくります。当時はもうお城はつくれない時代です。藩主は御殿(館)をっくります。これが、新見御殿町の名のもとです。
現在の裁判所の所に川が流れていました。その川を現在の高梁川にまとめ、この地区を埋め立て、田んぼや町人の町にしました。現在の裁判所の所に惣門があり、そこから上が武家屋敷でした。
(四間幅の道=本了) (寿福松原通り=松原通り)

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