


神郷温泉は、新見市神郷支局よりさらに北上、高梁川の上流標高500mの高瀬ダムの湖畔にある、温泉とスポーツとレジャー施設です。細い山道を抜け たところに開けた一大施設を見た時には、こんな場所にこんな所があったなんて ...
千屋温泉いぶきの里は、新見市の北、鳥取県との境近く、標高650mに位置します。豊かな自然の中、温泉施設、宿泊施設、レストラン、オートキャンプ場 等が併設されています。千屋の温泉は、アルカリ性の単純泉。...

千屋牛肉なら、やっぱり新見のこのお店!新見を取材で回っているというと、「千屋牛って美味しい?どこで食べられるの?どこで買えるの?」と、よく聞かれます。岡山県南のデパートの食品売り場で も千屋牛を取り扱ってい...
一口食べてほっとする、優しい味を召し上がれ千屋牛を使った料理が食べられるお店がだんだんと増えてきました。今回は、新見市役所近くにあり、「千屋牛カレー」が人気の「ぽぱい」さんを訪ねました。 「ぽぱい」さんは、ちょっと...

新見の市街地の氏神船川八幡神社の秋季祭典は毎年10月15日に行われる。
本殿の祭事が午前中に終わり、午後から神輿の町内渡御の行事が続いて行われる。午後12時30分頃に本殿前を出発、神社下から先駆けが、武器行列(大名行列)のー隊、次が神輿のー隊、後は各町内の趣向をこらしたー隊(現在は子供大名行列等)の三区分になって、お旅所に向かつて午後1時30分に出発する。
先駆の大名行列は新見藩祖関備前守が元禄11年に作州津山から、新見へ入国された祭そのままの厳粛な入国行列の模様を伝えたものである。ことの起こりは藩祖が入国行列のー隊を、八幡神社の神輿渡御の先駆に寄進されたことによるのである。
旧藩時代はこの行列は新見藩の行事であったから、警護は厳重に守られ、渡御順路の拝観者は一切土下座の作法を守らせた。特に藩の方針で婦女子は家内の座敷で端座のまま拝観することを許された。この先駆の大名行列が通過して神輿の行列になると、拝観者は土下座を解かれて神輿を拝んだ。最後の各町内趣向をこらしたユーモア溢れる余興を見物して腹を抱えてお祭り気分になり、一年中の欝気を発散させるのである。
昭和13年の新見の大火災で関家から寄贈の大名行列の道具は一切焼失した。現在は新調したものを使っている。
起源は定かではないが、300年前にさかのぼるとされている。廃藩後の明治9年、岡山県令から「供奉中に限り古例に任せ不若儀と可心得事」との許可を貰っています。
この64名からなる行列を迎えるのに、中町から明治町の沿道には氏子が幔幕を張り、盛砂に清め塩をのせる立て砂で迎えます。(祭りの情報はこちら)
この御神幸武器行列は、初代藩主関長治侯が入国時に行った公式行列を、往時のしきたりを忠実に継承して行っています。
青竹を手にした二人の先払いを先頭に「下にー、下にー、」のかけ声と共に新見船川八幡宮を出発して、一定の順路でお旅所へ向かいます。
珍しく、また格調高い祭典行事として、無形民俗文化財に指定(昭和49年9月9日)されています。
行列を拝観される方は、次のことをお守りください。
●行列が通過する間は、座るか腰を低くして迎える。場所を動いたりしないこと。(立った人が居ると行列は止まり、前進しません。)
●行列は静かに敬けんに拝観してください。
●行列の前や途中を横切ってはいけません。(横切ったりすると、元の場所へ戻されます。)
●郷士監察(紋付き羽織袴姿で行列の外を歩く役の人)の指示に従ってください。
以上のことをお守りいただき、古式ゆたかな伝統ある行列が円滑に前進するよう、御理解と御協力をお願いいたします。


月10日(日)と24日(日)に、「にいみ山野草ツアー」を実施しました。「鯉が窪湿原」と、「夢すき公園」を巡るツアーで、「鯉が窪湿原」では、湿原 散策や山野草見学をし、「夢すき公園」では、紙すき体験をしました。...

区画サイト、フリーサイト、トレーラーハウス、大型ロッジがあります。ペット同伴可。 キャンプサイトは気持ちの良い芝貼りでスペースも広く、全サイトに個別の流し台と無料の電源が完備されています。トイレやシャワーは常に清潔に管理されて おり、ランドリーもあります。ア...

新見市哲多町蚊家天王八幡神社周辺では金ボタルが幻想的な光を放ち飛んでいます!!ここで見られる「金ボタル」は和名「ヒメボタル」といい、全長7mm前後のとても小さなホタルです。そんな小さなホタルが互いに求愛し、一生懸命光り輝いている光景はまるでイルミネーションのようです!!
新見市哲多町蚊家地区の天王八幡神社の境内とその周辺は金ボタルの集団発生地として岡山県天然記念物に指定されており、国有林においても発生地一帯を特定 動物生息地保護林を設置して保護に取り組んでいます。
丸川松隠(通称一郎) は宝暦8年(175 8年) 6月21日倉敷の西阿知で生まれました。当時、西阿知は新見藩の飛び地でした。第5代新見藩主長誠(ながのぶ) 侯の時代、安永から寛政にかけての20年間は天災が続き、人心は荒れ、領民の悲劇も起こって、藩内はすさんでいました。長就侯は、藩政の建て直しには人づくりが必要と考えられ、優れた指導者を探しておりました。西阿知に丸川松隠という朱子学者がいることをお聞きになり、思誠館の督学(校長) に迎えることにしました。
その当時、丸川家は新見藩士ではありませんでした。丸川家は代々新見藩に仕えていましたが、松隠の父茂雅は新見藩(の仕籍) を離れて西阿知で庄屋の代わりをしておりました。この頃天災続きで、父は周辺の村代表として水の訴訟のため江戸へ6年間行っておりました。その問、男姑の病気看病と家事や農業、育児等で母松の過労が続き、病に冒されます。父のいない問、母の看病を松隠がやっていました。松隠29歳の時、新見藩から親孝行を尽くしたというので表彰を受け、銀5枚と田畑の税の永代免除をうけました。幕府が編集した『孝義録』にも孝子として載りました。
松隠は母松の教えもあり、幼少から学問に精を出し、15歳で総社の亀山如水につき朱子学を学び、22歳で讃岐の尾池薫陵について医学を学びました。
30歳で父母を亡くした後、33歳の時、大阪の中井竹山の「懐徳書院J (現在の大阪大学のような学校) に入門しこの塾で佐藤一斎と共に英傑として天下に認められました。松隠、の名が幕府にも聞こえ、老中松平定信から江戸学問所昌平校(現在の東京大学のような学校) の教授に招かれます。その同時期に第5代新見藩主関長誠侯から新見藩の藩校思誠館の督学に招かれます。幕府と新見藩の招きが期せず一致したのです。その時の松隠の答えです。「私の家は代々新見藩に仕えておりました。
故あって父は新見藩の仕籍を脱しましたが、この度また私に声がかかりました。殿様のご恩はしばらくも忘れていません。
敢えて他へ仕官する気持ちはありません」。
寛政5年(1 793年)松隠36歳の時、長誠侯にお会いし、藩校思誠館の督学になり、18年間、君臣を越えた人間同士の関係が続きました。
「松隠の人となりは、温厚で馴染みゃすく、一見したところぼんやりしていて馬鹿のように見える」 と
佐藤一斎(後の昌平校の督学)が碑文(松隠丸川先生碑銘)に書いています。
-松隠の同門と弟子-
同門(中井竹山の門下)に佐藤一斎がおります。一斎の祖父は儒学をもって美濃巌村藩の家老になり、祖父、父とも藩政を担当し、議主松平侯に使え江戸詰め。一斎は後に昌平校(東大のような学校)の儒官となった、天下に知られた人物。人柄は、松隠のような温厚和易な人柄ではなく、全く対照的な性格であったようです。後に松隠碑の碑文を書いています。
弟子に、新見藩では渡辺松宮、木山楓渓、梶並蘭窟、内藤瓦全。
松山藩では、山田方谷。(方谷は5歳から15歳まで新見で松隠の教えを受けました。
方谷の弟子に進鴻渓、三島中州がいます。)幕領では三島伝太郎、神崎東作。
